ジリリリリリリリン
電話が鳴った。総務ぐらいもうちょっと早く来いよ。とか思いながら、僕は仕方なく電話に出た。
「いつもお世話になっております、アソシでございます。」
「あっ、橋口ですけど」
明らかに仕事相手ではない、眠そうな低い声が聞こえた。
「あっ、なかたにです。寝ていたんですね。」
「今起きたからちょっと今日遅くなるから」
「はあ、分かりました、早く来て下さいね」
「はいはい分かった、ゴメンね」
まったく、本当にこれでええんかなあこの会社は、と思いながら、電話を切って、ホワイトボードの橋口さんの欄に、「寝坊により遅刻」と記入した。橋口さんの3つ下の行に「病気静養中」が目に入ったが、何も考えないようにした。
毎日朝の掃除の時間はオフィスにいるのは僕だけでよく電話が鳴っていた。9時を過ぎると他の会社はもう仕事が始まっているのだから当然である。昨日までは僕は電話をムシしていたのだが、僕の中で昨日電話に出たことが一つのきっかけとなり電話に出ることに何の抵抗も感じなくなっていた。一般常識が欠落している僕は電話マナーぐらい一応教えてもらわないと何か失礼なことを言ってしまいそうで避けていたのだ。
朝の掃除のために雑巾を取りに行こうとした時また電話がなった。
ジリリリリリリリン
次は誰なんだろ住友さんかな、とか思いながら、電話にでた。
「いつもお世話になっております、アソシでございます。」
「あの、局長おる?」
あまりに慣れ慣れしい態度に一瞬ビックリして、返事が遅れた。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「あっ、山本やけど、君誰?」
電話相手が山本さんと分かった瞬間、心臓を掴まれたような気がした。呼吸が止まった。電話をしている僕だけがまた非日常的な世界に引きずり込まれるおもいだった。頭をいろいろなことが巡り、ぐるぐる回っていた。そうして、やや、時間があき、不自然は返答になってしまった。
「…、あっ、なかたにです。お疲れさまです。」
「あ~、なかたにくんか、昨日はゴメンな、大丈夫やった。心配しててん、ほんまゴメンな」
電話相手の山本さんは理解できないぐらい普通だった。勿論、電話越しという余裕が僕にはあったと思うし、山本さんの普通というものは表面的なものだということはもう十分承知していた。
「いえいえ、大丈夫です。」
「局長って何時に戻ってくるのかな?」
ホワイトボードの局長の欄には、「六甲、16時帰社予定」、と書かれてあった。僕はそれを確認すると、
「え~、予定では4時になっております。」
と答えた。
「そうか、…。ほんなら伝言を頼んでええかな?」
「あっ、分かりました、ちょっと待って下さい」
僕はそう答えると机の中からメモ用紙とボールペンと取り出そうとした。緊張しているのかボールペンがなかなか見つからずバタバタしてしまった。横を見ると橋口さんが僕を不思議そうな目で見ていた。机の引き出しに見つからないので、僕はカバンを開け、文具入れからボールペンを出した。
「はい、準備出来ました。」
「ほんなら言うから、メモしてな」
「はい」
「ソフィーの世界では局長しか見えません。」
「…。」
「…、メモった?」
山本さんと会話していると、度々発生するいつものやつだ。何を言っているのか分からない。
「えっ、も、もう一度お願いします。」
「だから、ソフィーの世界では局長しか見えません。」
「ソフィーの世界では局長しか見えません。ですか?」
「そうや、何回も言わすなや。」
「はい、すいません。」
僕は、「ソフィーの世界では局長しか見えません」とつぶやきながらメモに書いた。
「はい、出来ました。」
「ゴメン、悪いけど、間違ってないか確認したいから言ってくれへん?」
言われるがままに、僕は言った。
「ソフィーの世界では局長しか見えません」
「OKOK」
「はあ」
「ほんじゃ、局長に伝えといてな、よろしく!」
そういって、山本さんは電話を切った。電話が切れた途端、普通の世界に戻ってきた。しかし、目の前には非日常的な世界が存在していたことを示す証拠が残っていた。
「ソフィーの世界では局長しか見えません」そう書かれたメモが机にあった。しばらくそのメモを見つめていた僕は、そのメモに手を加えて局長の机の上に置いた。
局長へ、
山本さんよりお電話がありました。伝言は以下の通りです。ソフィーの世界では局長しか見えません
13時30分 電話応対者 なかたに
この電話が僕が山本さんを知る最後である。
僕がこの会社を退職するまで、ホワイトボードの山本さんの欄には、「病気静養中」と書かれたままで、この会社で山本さんの姿を見ることは2度となかった。
こうしてアソシに入社してから起きた1つの事件は終わった。
おわり