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東京湾埋立地の歴史:江戸時代から現代までの変遷

東京湾の地図

月島でもんじゃ焼きを食べていてふと思ったんです。

海際は漁業が盛んで栄える。都市化していくと都心は内陸部に移動。海際に残っている人は肉体労働を続けて、都市部と格差が生まれる。だから旧市街は海際に多い。僕がよく行くフィリピンでは、マニラもセブも海際に旧都市が残っていて、そのエリアは治安が悪いんです。海際はゴミ捨て場が多い。ゴミ山に住んでいるストリートチルドレンもいます。

小麦粉を混ぜただけのもんじゃ焼き。どう考えても天皇が食べていたとは考えにくい。下町のローカルフードは貧困なエリアから生まれたのか?月島ってどんなエリアなんだろう?

それで翌日に調べてみると、月島は江戸時代に作られた埋立地だった。埋立地はゴミ捨て場だったり、地方から東京に来た人たちが流れ着いた場所だった可能性が高い。なので、東京湾の埋立地がどう広がったのかChatGPTに聞いてみた。

東京湾の埋立地拡大の歴史

東京湾埋立を1から最新まで、番号、場所、年号、時代、概要を事例列で表にしてください。第2号は、芝浦、月島、勝鬨、豊海を分けてください。

東京湾埋立場所年号時代
1号地品川沖1850年代江戸末期ペリーの黒船が浦賀に来て開国を迫り脅威を感じた幕府は、品川沖に台場(砲台)を建造。港湾施設の整備を目的に最初に埋立てられた。
2号地芝浦1870年代明治初期工業用地・倉庫地として埋立開始。鉄道貨物輸送拠点として発展。後に住宅地や商業地として発展
2号地月島1892年~1894年明治中期隅田川河口付近の埋立。工場用地・住宅地として利用され、庶民の街として発展
2号地勝鬨1911年~1913年明治末期月島の南側、交通の要所として発展。1936年に勝鬨橋ができて発展
2号地豊海1910年代大正初期勝鬨の東側。港湾施設や商業施設エリア
3号地大井埠頭(品川区)1930年代昭和初期港湾物流の効率化を目的に埋立。現在はコンテナターミナルとして機能
4号地天王洲アイル(品川区)1940年代昭和中期工業地として開発後、現在は再開発されオフィス街・商業地として利用
4号地晴海(中央区)1920年代~1930年代昭和中期戦後は晴海埠頭や貨物鉄道が物流を担う
5号地豊洲(江東区)1920年代~1937年昭和中期1923年の関東大震災の瓦礫の処理も兼ねて埋立が行われた。工場跡地を再開発し、現在は商業地や豊洲市場として発展
5号地辰巳エリア(江東区)1950年代昭和中期公営住宅の整備や産業施設として利用。住宅供給のために拡大された
6号地有明(江東区)1970年代昭和後期東京湾岸道路の整備とともに埋立。1996年に東京ビッグサイトなどが建設される
9号地舞浜(千葉県浦安市)1980年代~1990年代昭和後期1983年に東京ディズニーランド、2001年にディズニーシーが建設され、観光地として発展
13号地青海(江東区)1990年代~2000年代昭和後期東京ビッグサイトや物流施設が立地。イベント施設としても活用
13号地お台場(江東区)1930年代~1970年代昭和後期観光・商業地として整備。レインボーブリッジやフジテレビ本社がある
14号地夢の島(江東区)1938年~1975年昭和後期ゴミ埋立地として利用された後、緑地公園として整備。環境再生のモデルケース
東京湾埋立地の年表 ChatGPT作成

埋立地が作られ始めたのは江戸時代の後半。

ペリー来航は1853年。湾岸整備の必要性がでてきたようです。

江戸時代

「埋立地を作り始めたのは誰?」と聞くと、「徳川吉宗」と答える。「1号地の埋立地は誰が指揮していた?」と聞くと「大久保忠教」と答えるので、また聞いてみた。

吉宗から大久保忠教の間の埋立地の歴史を表にしてください

場所年号指導者・関与者概要
品川沖1730年代徳川吉宗(8代将軍)享保の改革の一環として、江戸湾の埋立事業が始まる。商業・物流の拡大を目的に、江戸湾周辺の埋立地が計画され、品川沖の埋立が進められた
芝浦1740年代徳川吉宗(8代将軍)江戸湾の埋立が進行。芝浦などの土地が埋め立てられ、商業地や物流拠点が形成される
品川沖1780年代大久保忠教(老中)品川沖の埋立地がさらに進行。江戸湾の港湾整備を加速し、商業・産業発展の基盤が整えられた
芝浦、月島、勝鬨1790年代大久保忠教芝浦、月島、勝鬨の埋立が行われ、江戸湾周辺の港湾地帯がさらに発展

月島は江戸時代にも明治時代にも開発されている。そして、1800年から1850年の間は動きがない。江戸後半はダラダラしてたのだろうか?大奥の後半、江戸幕府が衰退していってる時でしょうか。

江戸と現在の東京地図を比較 – 大江戸今昔めぐり

ChatGPTの情報を完全に信じるのは危ない。間違いがある。それで、大江戸今昔めぐりというアプリを入れて、今と江戸時代の東京を比べた。

おお、すごい!

江戸時代には豊洲も月島もありません!

築地は漁港だったんですね。当たり前か。

そう考えると、築地を豊洲に移動させるのも当たり前な気がしてくる。

東京港の埋立エリア拡大の変遷

東京の埋立地は段階的に行われたはずなのでその資料を探した。

すると、国土交通省の東京港湾事務所のサイトに「東京港の埋立の変遷」という資料があった。東京の埋立地の変遷が図示されていた。

東京港の埋立エリア拡大の変遷地図 東京港湾事務所
東京港の埋立の変遷

東京湾を埋立地にしはじめたのは徳川吉宗だと思ったら、江戸初期の徳川家康の時代から始まってました。神田山を切り崩して日比谷を埋めて江戸城の周辺を埋め立てたのが家康。江東区なんてほぼ埋立地。埋立地には井戸がでないから、水源を確保して、塩を確保したんですね。家康すごい。

江戸時代は平和になって食糧が安定して、人口が爆発的に増えて、場所が足りなくなったんでしょうね。

明治時代になると、品川と佃島、黄色エリアです。ペリーが来て開国して、明治になってすごい勢いで東京は開発されていったんでしょう。増える人口問題の解決、ゴミ問題の対策、開国による西洋の脅威。

東京の大半は海

話を戻すと、江戸初期、皇居(江戸城)は海際だったんです。

東京は埋立地ですね。

もしかして皇居のまわりのお堀って海だったのかな?と思ってChatGPTに聞いたら、海の一部だった。

はい、皇居のお堀は昔、海の一部でした。江戸時代、現在の皇居がある場所は「江戸城」として知られており、その周囲には堀が掘られましたが、その堀の一部はもともと海の干潟だったことが確認されています。

全然知らなかったのでビックリです。八重洲ってそういうことなのか?

縄文時代は東京はほぼ海

縄文時代まで遡るとほぼ海でした。東京のハザードマップを見ると、津波や洪水が起きるのはもともと海だったエリアでした。なるほど。

東京湾は遠浅で大きい船が乗り入れられなかった。だから、貿易するには港を整備する必要があった。遠浅だから埋め立てしやすかったようです。

東京の土地は高低差がある。高台には大名や武家、川沿の下町に庶民が住んでいた。その名残は今も残っていて、高台には大使館とか行政機関があって、坂を降りた谷間のほうに住宅地がある。下町って物理的に下の街なのね。

佃島は隅田川河口の三角州上に築かれた島

隅田川河口の三角州上に築かれた佃島。ポテンシャルありそうな場所。そこに、徳川家康が摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区周辺)の漁師たちを江戸に招いた。彼らは、幕府の命を受けて江戸湾で漁業を行い、江戸城に魚を供給した。この漁師たちが住み始めた土地は「佃島」と名付けられた。ということは、佃島のルーツは関西人!だから住吉神社が作られた!だからもんじゃ!?謎解きみたい。

月島は佃島の三角州を基にして1885年埋立てを開始し1892年完成した人工島。はじめは築島と呼ばれたが、月がキレイだったから呼び名を月島に変えたそうな。

貿易がはじまって小麦粉もどんどん消費するようになった。そして、海際(月島)の子どもたちの安いおやつとしてもんじゃ焼きがはじまった(のかもしれない)。

もんじゃ焼きは文字焼きがルーツという説があります。葛飾北斎の北斎漫画や、川柳に文字焼の文字やイラストがあるのは1800年から1850年あたり。東京のことを知るにはその時代のことを学ぶのが楽しそうです。

参考資料 国土交通省 関東地方整備局 東京港湾事務所

東京港湾事務所のサイトは参考になりました。

東京はポテンシャルがなかったエリア。それを頑張って開拓したんですね。埋立しまくったから井戸がない。だから、東京都は八王子のほうまで広げて水源を確保して、埋立したところに地下鉄を張り巡らせているのかあ。面白い。

今後、石川島資料館に行ってみます。TOKYOミナトリエも気になります。東京湾の埋立地の歴史を1日調べて楽しかったのでメモとして残しました。

調べればどんどん情報がでてきてキリがないのでこのへんで。面白かったのでこちらの動画もどうぞ

フィリピンではゴミを捨てた場所はゴミ山になって、NPOが観光地にした。日本ではゴミを捨ててできた埋立地を普通の街にする。この違いは何で生まれるのか?そんなことを考えてしまいます。

治安が悪いトンド地区のスモーキーマウンテンに行きました。

来る実で人気の甘えびもんじゃ焼き