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【長崎】軍艦島ツアー。炭鉱の島は、当時最先端の「海上都市」

長崎の軍艦島

長崎に来たら一度行ってみたかった軍艦島。正式名称は「端島(はしま)」。長崎港から約19km沖に浮かぶ小さな島。明治から昭和まで、ここで石炭を掘っていた。1890年から1974年までなので、戦争中も人が暮らしていた。

シーマン商会の軍艦島ツアー

2015年、世界遺産に認定されたことで有名になった。2020年には、安全のため、長崎市が端島(軍艦島)上陸の条例を定めて、上陸率(約60%ほど)になったそうです。軍艦島ツアーを行う会社はいくつかあって、船の大きさや金額が違う。複数ある催行ツアー会社の中で、「シーマン商会」の軍艦島ツアーを選んだ。

シーマン商会の軍艦島ツアー

移動含めて約3時間。定員100名。料金は、4,200円+650円。平日だったけど、午前便も午後便も満員。かなり人気があるようなので、予約必須です。

午前便は10時30分出航。受付は9時45分からで、集合時間は10時10分。僕は9時40分ごろに行ったけど、すでに10人近く並んでいた。当日の受付や支払いがあるので、意外と早めに行ったほうがよさそう。外国人の参加者はいない。

船の席は早い者勝ち。前方は揺れやすいけどクーラーがあって、後方は比較的揺れにくいけど、屋外でクーラーなし。行きは進行方向右側、帰りは左側のほうが軍艦島を見やすいと教えてもらったので、前方の右の席にした。

シーマン商会の軍艦島ツアーの船

船が出ると、ガイドによる説明が始まる。途中に、イージス艦があって、1隻2000億だという。8隻のうち5隻が長崎にあるそうです。

軍艦島の説明も始まる。単なる廃墟観光だと思っていたけど、話を聞いていると、この島は、単に「炭鉱の島」というだけではなく、当時の日本の最先端の技術や生活が凝縮されていた島だったと感じてくる。

軍艦島に近づくと、まず船から島をぐるりと見て回る。高層アパートが密集する独特の景観は、海から見るとさらに異様。

軍艦島の近くに来たとき、「上陸許可がでました!」ってハイテンションで言うから、もったいぶるなあと思っていたら、夜に長崎の居酒屋で話をした人によると、「軍艦島ツアーに参加したけれど上陸できなかった」という人は本当に4割ぐらいいるらしい。上陸できない場合は、別の場所を見学するそうです。だから、島に降り立てたのは運がよかったのかもしれない。

そんなわけで、ドルフィン桟橋から上陸する。上陸してから見学できる場所は限られていて、ガイドの案内で3つの見学所を歩いて回る。

三菱がつくった海上都市

ガイドの説明を聞きながら歩いていると、「日本が近代化していった過程そのもの」が残っている場所なのだと感じる。

軍艦島は、もともとは小さな岩礁だった。1890年、三菱が島全体と鉱区の権利を買い取り、本格的な海底炭坑としての開発が始まった。採炭が進むにつれて島の周囲を埋め立て、現在の形へと拡張されていった。

幅約160m、長さ約480mという小さな島なのに、最盛期には約5,200人が暮らしていた。学校、病院、映画館、パチンコ店、商店、神社、寺、交番、牢屋、感染者隔離エリアなど、生活に必要なものが島の中にそろっていた。三菱によって、一つの都市が丸ごとつくられたような島。

しかも、そこには当時の最新技術が集められていた。1916年には、日本最古の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅とされる30号棟も建設されている。

島を歩いていると、「こんな小さな場所に、よくこれだけのものを詰め込んだな」と驚かされる。

テレビの普及も早かった。当時、全国的にはテレビの普及率が8%だった時代に、軍艦島ではテレビ普及率は100%。島にはアンテナがたくさん並び、壊れやすいため電気屋が儲かったという話も面白かった。

一方で、島には「緑がない」「墓がない」など、普通の町とは違う制約もあった。植物がないから、屋上に土を運んで野菜や花を育てる取り組みが行われていた。

地下には過酷な炭鉱労働

軍艦島の炭鉱は海底に広がっていた。

地下深くまで毎日降りて、8時間労働、三交代制で働く。坑内は38度、湿度80。岩盤浴みたいな中で、石炭を掘る。戻ってくるころには体が真っ黒なので、海水風呂で体を洗い、真水の掛け湯で洗う。水は貴重だったようです。

炭鉱労働者の給料は高く、初任給は現在の物価にすると約50万円。当時としてはかなり裕福な暮らしができた。映画館やパチンコ店などの娯楽施設があったのも、そうした背景があったから。

ただ、島での生活が快適だったわけじゃない。島人が不安だったのは食糧難と台風。台風が来れば大きな波が島を襲い、食料や真水にも限りがある。海に囲まれた閉ざされた島だからこその苦労もあったそうです。

そして、エネルギー革命で島は消えた

そんな軍艦島も、永遠には続かなかった。

日本のエネルギー政策が石炭から石油へと移り、石炭の需要が減少。1974年1月に閉山した。そして、わずか3カ月後には島民全員が島を離れ、軍艦島は無人島になった。名古屋に行った人が多かったそうです。

軍艦島に残っているのは、その時代の残骸。崩れかけた建物やレンガ造りの施設。建物の老朽化は進んでいて、いずれなくなってしまうという。現在も上陸できるのは安全が確保された限られた区域だけ。

世界遺産として登録されているのは、軍艦島そのものではなく、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つである端島炭坑と壁の2つ。

軍艦島は、単なる「炭鉱の島」でも「軍艦に見える島」でもなかった。そこには、石炭によって栄えた日本の近代化、最新技術を集めた海上都市、そこで暮らした人々の生活、そしてエネルギー革命によって突然役目を終えた歴史が凝縮されている。

盆踊りの炭坑節が日本中で流行っているのも当時の名残な気がする。

軍艦島は、長崎観光でかなり印象に残る場所でした。