岐阜の関市に行ったとき、大島雲八(おおしま うんぱち)を知りました。本名・大島光義(みつよし)。1508年に生まれた美濃の武将で、弓の名手としての腕前と、三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)に仕えたその忠義から、関市民にとって誇り高き存在みたいです。
秀吉と家康は敵対していたので、両方に仕えていたのが不自然でしょ。調べてみたら、関ヶ原の戦いで家康についたみたいなんです。その時、93歳。その年齢での参戦するだけで驚異的なのに、若者顔負けの武勇を見せつけ、徳川家康から多大な褒美と領地を与えられ、美濃国・関藩の初代藩主となったんです。
町の再建や刀鍛冶の保護に尽力して、戦で荒れた土地を立て直し、職人たちが再び鍛刀に専念できる環境を整えて、関が「刃物の町」として栄える土壌を作った。
弓の名手として、戦国時代の数多くの戦に参加していて、坂本の戦い(1570年)では、敵陣の将を一矢で射抜いて、その時に雲が切れたように晴れ渡ったんだとか。それを見た織田信長が、「まるで白雲を貫いたような見事な矢よ!」と賞賛して、「雲八」の通称を授かったそうな。
1604年、97歳で生涯を終えたけど、その生きざまは「老いてもなお武士として誇りを貫いた男」として語り継がれています。関市の人々にとって大島光義は、強さと誠実さを併せ持つ英雄。
93歳で戦場に立った人間離れしたサムライ、それが大島雲八。関市内の「関鍛冶伝承館」には甲冑がありました。「せきてらす」にも展示がありました。ぜひチェックしてみてください。
本もありました。「激動の時代に大島家を守り抜いた臨機応変の人でもあった」とあるように、戦乱の時代を生き抜いたのは強さだけじゃなかったようです。

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