鳥取城の前に吉川経家(きっかわつねいえ)の銅像があります。鳥取に行って初めて知ったので調べてみたらカッコよかった。
吉川経家とは
吉川経家は、豊臣秀吉に兵糧攻めされたときの鳥取城の城主です。でも、彼はもともと鳥取とは縁もゆかりもない人物。
時代背景としては、戦国時代、山陰地方(鳥取周辺)は毛利氏と織田氏が勢力争いをしていた。山名豊国はもともと毛利方につき、鳥取城を預かっていたけど、1580年、情勢を見て織田方に寝返ります。
これを受けて、織田家の重臣秀吉は「山名豊国が味方になったなら、山陰攻めが楽になる」と歓迎するんだけど、山名がまだ毛利側と内通しようとした形跡を見つけて、「こんな信用ならんやつに大事な拠点(鳥取城)を任せられん!」と判断。鳥取城を奪って完全に織田方のものにしようと決断します。居場所を失った山名豊国はどうしたと思います?なんと逃亡するんです。そんなときに、毛利方が新たに鳥取防衛のために派遣したのが吉川経家でした。
城主になったというより、守備のために送り込まれた立場です。貧乏くじをひいた男と書かれていることもある。そんな状況の中、彼は首桶(自分の首を入れる桶)を持って入城したと伝えられています。最初から「死ぬ覚悟」で城に入ったんです。
豊臣秀吉が鳥取城を兵糧攻め
その後、秀吉の軍勢が鳥取城を包囲します。軍事力で押しつぶすのではなく、兵糧攻め、つまり「飢えさせる」作戦でした。経家率いる鳥取城の守備側は、数ヶ月にわたって食料を絶たれ、最終的には城内の兵士も民も、草や皮、あらゆるものを口にして命をつなぐという凄惨な状況になり、餓死者も続出したといいます。
ついに力尽きたとき、吉川経家は降伏を申し出ます。普通であれば、城を明け渡した者は処刑されるんですが、秀吉は彼の忠義と人柄に心を打たれ、「もともとお前は毛利家の家臣であり、山名氏のあとを継いだだけなのだから、責任はない」と助命しようとします。しかし、吉川経家はその申し出を断りました。自分の命と引き換えに、飢えに苦しんだ兵や民を救ってほしい、と願い、自ら切腹を選んだのです。
切腹前に子供に書いた手紙
その切腹のとき、吉川経家は家族にあてて手紙を書きました。子どもにも読めるようにと、ひらがなで書かれていて、鳥取県立博物館でこの手紙のレプリカを見ることができるようです。
「とつとりのこと
よるひる二ひゃくにち こらえ候
ひょう(ろう)つきはて候
我ら一人御ようにたち
おのおのたすけ申し 一門の名をあげ候
そのしあわせものがたり
おききあるべく候」
(意味)
「鳥取では、夜昼二百日もの長い間、
敵の攻撃を防ぎ、こらえてきました。
しかし、食べ物が尽き果ててしまった。
そこで、我らは一人一人が
できることを探して、御用に立ち、
みんなを助けて、吉川家の名を上げました。
その幸せな物語を聞いてもらえると嬉しい」
鳥取城跡には、そんな吉川経家の銅像が建てられています。立ち回りがうまいヤツよりこういう硬派な男が好き。今でも市民に尊敬され、「鳥取の英雄」と呼ばれる理由がよくわかります。カッコいいです。
自害後、その首は秀吉の下に届けられた。秀吉は首を見るなり「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたと伝わる。その後、安土の織田信長のもとに送られ、信長によって丁重に葬られた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/吉川経家
鳥取の方のnoteも参考になりました。






















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