伊賀上野城と同じ敷地内にある伊賀流忍者博物館、面白かった。入場料1000円で、忍者屋敷、忍者体験館、忍者伝承館を見学できる。忍者実演ショーは別料金。

忍者屋敷
1日何回か忍者屋敷のガイドツアーがある。ラッキーなことにちょうど案内時間に到着。

200年前の建物を移築・再現したという「忍者屋敷」で、忍者の格好したガイドが解説してくれます。

どんでん返しや隠し階段などの仕掛けを目の当たりにすると、大人の自分でも思わず「おおっ」と声が出る。ドアを左手で開けるといった具体的な所作の話も面白い。









忍者体験館
その後の展示ゾーンも見応えがある。屋敷で聞いた解説とリンクしているから理解が深まった。忍者の服装が「黒」ではなく「紺色、灰色」だったことや歌舞伎との関係も興味深い。











忍者はアニメでイメージが独り歩きして実態とはかなり違うんですね。戦闘は避けるのが鉄則。戦わず、諜報や情報収集がメイン。スパイなんです。
忍者伝承館
さらに進むと忍者伝承館という建物がある。普段は農業をしながら薬草を育てて薬を作り、午後は武術だけでなく読み書きや算盤、果てはトイレを我慢する訓練までしていたというから、肉体も頭脳も超人的な集団だったんでしょう。










伊賀と甲賀が敵対していたのではなく、定期的に「最寄愛(もよりあい)」で交流する協力的な関係だったというのは知らなかった。火薬が得意な伊賀と、薬術が得意な甲賀という個性の違いも興味深い。かつて琵琶湖の底だったという特殊な地形や、都に近い地理的要因が忍術を発展させたという背景は面白い。

忍者実演ショー
屋敷解説の他に、忍者実演ショーも開催されているんだけど、残念だったのはその忍者ショーがやってなかったこと。行く場合は、スケジュールを確認しておくべき!展示だけでも忍者の知恵と歴史を堪能できたけどできればショーも見たかった。



この場所は、天正伊賀の乱で、伊賀軍が陣を構えていた場所。一度は壊滅したこの地が、今の平和な風景に繋がっていると思うと感慨深い。歴史好きなら行くべき。
無料の音声ガイドで学ぶ忍びの世界
無料の音声ガイドがあるんだけど、そこで「へえ」と思ったことが以下。忍者は戦闘のエキスパートではなく諜報活動のプロ。江戸時代になると、下底武士と同じ。ボディガードなどしていたそうな。
忍者の起源
14世紀後半の『太平記』に「京都の寺を忍者が焼いた」という記述があり、これが忍者に関する最古級の記録とされている。戦乱の時代には、潜入や情報収集の技術が重宝され、実戦を通じて発展していった。一方で、平和な時代になると活躍の場が減り、忍術も次第に衰退。明治時代になると、忍者は歴史の表舞台から姿を消していった。
伊賀と甲賀
伊賀と甲賀は隣接していて、山を1つ越えれば甲賀という距離。それぞれ独自の文化を持っていた。伊賀は特定の支配者を置かず、評議会のような形で自治していた。一方、甲賀には指導者層が存在していた。両者は敵対関係というより、定期的に交流する協力関係にあり、「最寄合(もよりあい)」と呼ばれていた。また、得意分野にも違いがあった。伊賀は火薬や戦術に強く、甲賀は薬術や薬作りを得意としていた。甲賀の人々は商人として各地を移動しながら情報収集も行っていたため、現在でも甲賀周辺は製薬業が盛んな地域として知られている。
伊賀に忍者が生まれた理由
伊賀は複雑な山岳地帯で、古代には琵琶湖があったが、地殻変動によって北に移動。複雑な地形が形成されたと考えられている。
山が入り組み、霧が発生しやすい地形だったので外部から侵入しにくい環境だったので、独自の自治文化が発展した。また、京都や奈良に近かったことから、争いに敗れた武士や技術者が逃れてくる土地でもあった。伊賀の豪族たちは、彼らを匿う代わりに知識や技術を学び、それが後の忍術の発展につながったとされている。
さらに、東大寺などの荘園が多く置かれていたものの、派遣されてくるものは力が弱いものが多く、地域の豪族たちが実質的な統治を行っていた。こうした地理的・歴史的背景が、伊賀忍者誕生の土壌になった。
忍者の1日
江戸時代の忍者の収入は年収160万。忍者だけを職業にしていたわけではなく、農業をしながら生活していた者も多かった。薬草を育て、薬を作ることも重要な仕事だった。午後になると訓練を行う。馬術、剣術、体術だけでなく、読み書き、そろばん、記憶術、メンタル訓練など、知識面の鍛錬も重視された。さらに、空腹や睡眠不足、長時間の潜伏に耐えるためトイレも我慢する訓練も行われていた。日が暮れると寝る。
火術
火薬が得意。百草、しょうのう、馬糞などの火薬の原料があり、生石を生成する技術があった。渡来人が多かった。原材料があった。鉄砲の使い手としても有名。織田信長を狙撃しようとしたものがいる。
伊賀は火薬技術に優れていた。周辺では火薬の材料になる硝石や薬草類が手に入りやすく、火術が発展したと考えられている。鉄砲の扱いにも長けていて、戦国時代には狙撃や奇襲なども行っていた。
天正伊賀の乱
戦国時代、伊賀は地元豪族たちによる自治が行われていて、戦国大名の直接支配を受けていなかった。織田信長は放置していたが、息子の北畠信雄(のぶかつ)が独断で攻めて全面戦争。伊賀が勝利したが、その後、織田信長本人が大軍を率いて侵攻。これが「天正伊賀の乱」。
激しい戦いの末、伊賀の人口の半分が死んで、建造物も消滅。多くの人々が各地へ逃れた。この出来事によって、伊賀の忍術は全国へ広がっていったともいわれている。江戸時代になると、藤堂藩が伊賀の復興を進め、各地に散った人々へ帰還を呼びかけたが、100人程度しか戻らなかった。伊賀流忍者博物館がある場所に、伊賀軍の本拠地があった。いまは上野城があるが、その時は平楽寺。
伽蘿先代萩(めいぼく せんだいはぎ)
伊達騒動という実際のお家騒動をモデルにした、人形浄瑠璃や歌舞伎の有名な演目。 物語の中で、忍者が妖術を使ってネズミの姿に化け、家主の屋敷に忍び込むという超自然的な演出が見どころになっている。
忠孝仇討図(ちゅうこうあだうちのず)と児雷也
江戸時代の読み物『自来也説話』などをベースに、三代歌川豊国(歌川国貞)が描いた浮世絵のシリーズ。 ガマの妖術を使う児雷也(じらいや)をはじめ、綱手(つなで)や大蛇丸(おろちまる)といったキャラクターが登場する作品群を指す。
忍者のビジュアルのルーツ
今では当たり前になっている「黒い衣装を着た忍者」というイメージは、歌舞伎の舞台演出が起源。 観客に「透明な存在(忍んでいる者)」として伝えるための約束事が、そのまま現代の忍者像として定着した。















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