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毎年リセットされる都市――バーニング・マンと「老害」のはじまり

バーニング・マン 2015
Author BLM Nevada

最近読んだ本で衝撃を受けたキーワードが「バーニング・マン」。アメリカ西部の何もないネバダ州の砂漠に、毎年夏、何万人もの人が集まり、一時的な街を作って共同生活をするイベント。インフラも電気も水もなく、金銭のやり取りも禁止。すべてが贈り物経済で成立する。たった一週間だけ。

この街は「ブラックロック・シティ」と呼ばれる。最後の夜には巨大な木造人形「バーニング・マン」が燃やされ、それをもってイベントは終わる。すべてを燃やし、何も残さない。「ここで10年間パフォーマンスしています」なんて人が特別扱いされないように。ベテランも初心者も、ゼロから。平等に、一年に一回限りの創造。

これが、ガーンと来た。

年をとると、若いときの努力や経験を活かしたい、という気持ちが生まれる。でも、その考え方自体が、老害の入り口なのかもしれないと気づかされる。

過去の経験が通用しない場所。蓄積が意味を持たない文化。そういう場では、「自分は昔こうだった」なんて言葉に意味がない。過去は毎年リセットされる。

これ、健全ですよね。でも、経験を重ねれば重ねるほど、それを手放すのが怖くなる。だから人は、つい「肩書き」や「過去の実績」にしがみつく。

けれど、そうした「積み重ね」がリセットされる環境では、常にいま、何ができるかが問われる。それは恐ろしいけれど、同時にものすごく創造的。過去が効力を失うからこそ、人は今この瞬間に集中し、本気になれる。

今この瞬間に本気になれるからこそ、人も組織も成長する。そして気づく――『競争がない組織は、いずれ陳腐化する』ということに。

積み上げや慣れに甘えると、そこには安定があるかもしれない。でも同時に、挑戦も、成長も、失われる。だからこそ、定期的なリセットは必要なんだと思う。実績や経験が通用しなくなる瞬間を、怖がらずに迎えられる社会でありたい。

バーニング・マンには、商業主義や消費文化への批判も込められているようです。奇抜な服やアートが目立つけれど、本質はそこじゃない。

「自分で考えて、自分で作り、自分で責任を持つ」という哲学。そして、「毎回、よーいどん」でスタートラインに立ちなおすという姿勢。そんな価値観に共感した人が集まるバーニング・マンは楽しそう。

一時的なものなら、独裁でも共存でも、あるいは詐欺でも成立する。でも、続かない。

続けることは難しい。継続することが正しいのかもわからない。でも、人は「終わる前提」に自由を見出すのかもしれない。バーニング・マンは、“持続させない”ことで理想のコミュニティを追求している気がした。

日本人って、長期的に物事を考えがち。きっとそれは、長期的に安定していたからそう変わった気がする。江戸時代は溜め込まず、パーっとお金を使っていたんです。いまよりも今を生きていた気がする。そう考えると、安定をゴールだと誤解せず、それがプロセスであると理解して向き合うほうがいい。

PS. 「バーニング・マン」という言葉は、さとのば大学の誕生秘話を紹介した『教育3.0』という本で知りました。その本のレビューはこちら