上野に初めて来たとき、この西郷隆盛の銅像を見て、なく写真を撮った記憶がある。当時はその意味もよくわかっていなかった。今回はボランティアガイドの方に上野を案内してもらい、最後にこの銅像の前にやって来た。

浴衣姿に草履、犬を連れて散歩している、親しみやすい西郷さんの姿。西郷さんと犬は別々の人が作っていて、銅像の高さは約4メートル。実際の西郷は身長180cmくらいだったらしい。顔はかなり大きい。
西郷隆盛は、顔も服装も実際とは違うの?
知らなかったけど、この銅像を見た西郷さんの奥様が「これは西郷ではない。こんな格好で外を歩く人ではなかった」と言ったそうです。武士としての誇りが高くて、外では常に正装をしていたそうな。
さらに西郷隆盛の写真は残ってなくて、兄弟の写真から推測して描かれたものが今も残る西郷隆盛の顔だそうな。弟の西郷従道と従兄弟の大山巌をモデルにしたそうです。ガイドに案内してもらうとこういうことを教えてもらえるから楽しい。
上野公園の銅像に対する糸子の発言については、「銅像の顔が本人に似ていないことを意味する」と解釈する説もあるが、昭和50年代に鹿児島県下で小学生に無料配布されていた西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく、普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/西郷隆盛像
その後、調べてみると、この銅像が完成したのは1898年12月18日。鹿児島の銅像は1937年5月23日に建てられていて、そちらはきちんと正装をしている。奥様の意見が尊重されたのかもしれない。だけど、教科書やチラシなどでよく見かけるのは、いつもこのラフな格好の西郷さん。なにか意図があるのか、不思議だ。
彰義隊の墓
明治維新のとき、徳川慶喜は江戸城に籠城した。戦を避けたい新政府軍は西郷隆盛を代表として江戸に進軍し、3月に勝海舟と会談。江戸城を無血で明け渡すことに合意した。それで江戸は戦火を免れたが、この和平に不満を抱いた旧幕臣の一部が彰義隊(しょうぎたい)を結成し、上野の寛永寺に立てこもった。
5月15日、西郷の指揮のもと新政府軍が上野を攻撃。根性も忠義も最新兵器には敵わず、わずか一日で彰義隊は壊滅して、江戸は完全に新政府の手に渡った。彰義隊の墓はこの西郷隆盛の銅像のすぐ近くにある。上野って、江戸時代にも重要な場所だったんだなあと、しみじみ感じた。

彰義隊のことはガイドに教えてもらいました。週末は、上野駅前のグリーンサロン付近にボランティアガイドの人がいるのでおすすめです。予約いらないけど、夏は暑いのでガイドはやってないようです。
コメントを残す