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【鹿児島】若き薩摩の群像|死罪覚悟で英国留学した薩摩スチューデント

鹿児島駅前の若き薩摩の群像

鹿児島に行ったとき、鹿児島中央駅の前に銅像がいっぱいあって「なんだろう?」と思って調べてみたら、「若き薩摩の群像」(中村晋也作)っていう作品でした。

薩摩藩主・島津がすごい

それにしても、江戸時代の薩摩(今の鹿児島)って本当にすごい。薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)は、開明的な政治家で、相当なカリスマだったようです。今では照國神社のご祭神にもなっています。

斉彬の死後、藩主になったのはその養子・島津忠義(ただよし)。だけど、実際に藩の実権を握ったのは実の弟・島津久光(ひさみつ)。久光が上京した際に起きたのが、有名な生麦事件。大名行列を無礼にも横切ったイギリス人を斬り捨て、これがきっかけで薩摩とイギリスの間で「薩英戦争」が起きます。この戦争で薩摩は西洋の軍事力の差をまざまざと見せつけられることになりました。

薩摩藩はお金を蓄えるために、石高(国の収入みたいなもの)を少なめに幕府に申告して、幕府には目立たないように気を使っていたようです。一方で、江戸では立派な屋敷を構えて、忠誠心をアピールする。絶妙なバランス感覚を持っていました。

しかも教育にも力を入れていて、鹿児島の郷中教育も有名です。「未来のためなら借金もやむなし!」っていうくらい、人を育てることに本気でした。

海外渡航が発覚したら死罪、だけど薩摩は留学した

当時、日本は江戸時代で鎖国。幕府は「海外渡航禁止令」を出していて。無断で渡航すれば発覚次第死罪。そんな中、薩摩藩は1865年、薩摩藩英国留学生団を密かにイギリスへ派遣し、留学を実現させた。力の差を感じたイギリスに行って学んだんです。それが「若き薩摩の群像」、リスクを取って未来を変えた人たちなんです。

留学を陰で支援したのが、西郷隆盛大久保利通といった薩摩藩の重鎮たち。彼らは若者たちに「西洋の学問と技術を学んでこい!」と強く後押ししたそうです。

この留学生団は藩の優秀な青少年15名と使節団4名の19名で構成され、学生として現地で学んだ15名は「薩摩藩第一次英国留学生」や「薩摩スチューデント」とも呼ばれています。

若き薩摩の群像の説明

その多くが明治維新の立役者となり、1868年に始まった明治時代の中枢を担う存在となっていきます。たとえば、五代友厚(実業界)、寺島宗則(外務大臣)がいて、日本の近代化に大きな影響を与えた。明治政府の中心には、九州(特に薩摩と長州)出身者ばかり、みんな若くて、その存在感は圧倒的。そういう歴史だけ見ると、鹿児島は相当ギラギラしていたと思う。

薩摩藩英国留学生記念館には「薩摩スチューデント」の展示があるんですが、鹿児島中心から少し遠いので行けませんでした。

すごいのは、鹿児島県は現在も若者を海外留学に派遣する奨学制度「薩摩スチューデント制度」を行っているんです。すばらしいですね。