青森の弘前に行ったとき、津軽為信(つがる ためのぶ)のしたたかさを感じましたねえ。もともとはこの地域を治めていた南部氏の一族なんですが、南部の力がまだ強かった時代に反旗を翻し、「津軽郡」として勝手に独立宣言。「もうウチは津軽としてやっていきますんで」と言わんばかりに、自分の領地を確保してるんです。
そして、いち早く豊臣秀吉に接近して、南部氏よりも先に「大名」として公認されたんです。したたかすぎるでしょ!

豊臣秀吉と仲良かったということは徳川家康とは仲良くなりにくいでしょ。関ヶ原の戦いでは、西軍(石田三成)につくふりをしながら、実は裏で徳川家康にも通じていたという説もあります。そのおかげか、戦後は「敵ではなかった」とされて領地はそのまま安泰。身の振り方がうまい。まさに元祖・太鼓持ち芸人。
江戸時代を通じて一国一城の大名として生き残ったのは、津軽氏。しかもその息子の代には弘前城まで完成。彼は「外様(とざま)」ですよ。外様って、徳川家康が天下を取ったあとに従った大名たち。多くの外様大名は土地を奪われるか、規模が縮小されたりして、生き残るのが難しかったんです。でも、彼は自分の領地(津軽地方)を守り、ちゃんと「一国一城」のルールの中で弘前城を維持し続けた珍しい存在なんです。
一地方の家臣からスタートして、一国一城の主にまでのし上がったんだから、かなりのやり手です。時代に境目にどういうポジションを築くは本当に大事ですねえ。
ちなみに、南部氏は勢力が大きすぎて徳川から警戒されていたとか。そのバランスを取る存在として、津軽氏が選ばれたという話もあります。ラッキーですね。

弘前市立博物館
弘前の博物館には、為信の銅像と家系図が展示されていて、家系図には為信の「上」がなかったのが印象的でした。自分が津軽の始まりだって、ちゃんと示してるんですね。

為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、「館神」という守り神の社があった。この社は稲荷社であったが、実はその稲荷様の後ろに厨子があり、その厨子は一度も開かれることがなく、「館神」はその中に安置されていると言われていた。明治になってその「開かずの宮」の扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。為信は、幕府による改易の危険を顧みずに、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていたのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/津軽為信#人物・逸話
そうそう。弘前城のすぐ近くにある弘前市立博物館があるんですが、津軽為信の銅像や家系図があります。展示の解説もわかりやすくて、津軽の歴史をあまり知らなくても楽しめます。規模は小さいけど、散歩がてらに立ち寄るにはちょうどいいです。
いまでは津軽海峡や津軽三味線など「津軽」の名は全国区。でも「南部」の名はあまり聞かない。それだけ為信が築いたものは大きかったってことなんでしょう。
青森が東西で仲が悪いなんて話も、ちょっと納得。ねぶた祭りが東側(青森市)だけっていうのも、何か意味があるのかも。そう思うと、ますます東の八戸のほうに行ってみたくなりました。
津軽為信で調べていると、ゲスとかネガティブな逸話もでてきますねえ(笑)。
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